白露地・積集
この作品は、事前に作りたいものがあったのではなく、展示のために与えられた空間があまりにも難しく、格闘した結果こうにしかならなかった。というのが正直な状況のような気がする。以前にも壁を作ったことがあるが、その時は空間の真ん中にそびえ立ち、紙がぎっちり詰まった塊の壁で向こうが全く見えないものだった。今回のものは、隔たりを作って向こうの世界と遮断する状況から、背伸びをすれば向こうも覗けるし又透けても見えるものに変えた。それでも自分の中では壁のつもり。塀のつもり。そして透けて見えているにもかかわらず、次には穴を開けて人が通れるようにしたくなった。
作品ができてしまってから自分で見て思うことだが、他人から見れば「私」は確かにココにいて自分としても確かに此処にありながら、見え見え透け透けの状態で、どんなことにも対応できる、そして流れていく。そんな風に生きていけたらいいなあ、と感じている。
積集のそのあと
壁に穴を開け、人が通れる門になった。門は完成した直後、震度4と震度2の地震の洗礼を受けながらびくともせずに立っていた。そして2〜3週間ものあいだ、何十人もの人が行き来し、見つめられ眺められていた。ところがある朝、外的な刺激もなかったのに、それは音もなくサラサラと壊れた。「いったい何がどうだったというのか」展覧会の会期中に倒れてしまった門。私はとりあえず現場に急いだ。門と対面している白山はその日も陽の光を浴びて美しかった。倒れた門に向き合っていると、急いで会場に駆けつける道中に新幹線の中で浮かんだ言葉がまた甦ってきた。それは「諸行無常やな」という仏教的認識である。
2006.3.9. いしだ ともこ